66th meeting
「休息」
Core Talk Cafe meeting

Digest

今回のテーマは「休息」ということもあり、はじめの一人一言で「一回休み」とパスする方もいらして、どことなくのんびりしたスタートとなりました。「休日前日に眠るときの充足感」のことを話される方や「すでにリタイアしているので毎日が休み」とおっしゃる方も。しかし、「休みの日にも資格の勉強など有意義なことをしなきゃと思ってしまう」とか「家にこもっているとなんだかいらいらするから外出して人に会っている」とか、「趣味のジョギングをしているときが一番何も考えていなくて休めている」など、「休み」だけれども「何かしている」場面をあげる方がかなり多くいらっしゃいました。「仕事ではPCを見続けていて、休みになるとiPadを見続けていて、結局同じことをしている」というように、自分の休み方に疑問をもっている方も。
そこから、「何からの休息であるかのちがい」に注目が集まります。「肉体」の休息か、「精神」の休息か、あるいは、連続する「日常」に対する短い「非日常」のようなものが休息なのか、などの意見が出ます。「一定時間だけ死んでいることができればそれが究極の休息なのでは」という指摘は、「全身麻酔がまさにそんな感じだった」という体験談や、英語の墓碑によくある「R.I.P.(rest in peace)」も似た発想なのかも、など様々な発言を呼びましたが、「死の間は回復することもないので生き返ったときに休んだという実感が無いのでは」、「自分が死んでいる間に休んでいるのは"自分"であると言えるのか」など疑問も出ました。「生の休みが死」という発想なら「人生の文脈から外れる」ことの方に重点があるのでは、という指摘も出ます。さらに、「煩わしい現実の文脈から出られるという意味では悪夢を見ている間も(現実での悩み事から離れられるので)休息と言えるかも」という発言も飛び出して「休息」の定義に迫る議論となり、「体や心のギアチェンジなのでは」「義務から免除されることが重要なのでは」など議論が続きました。
また、「休みの間に何かしていること」も改めて焦点となりました。「休日は何してる?」という質問には、寝ているだけなどの「活動オフの意味での休み」ではなく、何らかの生産的な活動をしていることが暗黙のうちに期待されている気がする、という発言にはうなづく方が多くいらっしゃいました。休日の過ごし方も監視・指導する企業の例があげられたことから派生して、「休みは誰が定義するのか」という方向に話が進みました。次の仕事のために体を休ませているだけの休日の例などを経て、「休日や休み時間があるだけでは休息にならない」「自分の意志で"自由"に使える時間」であることが重要なのでは、という意見が出ます。「余り」という意味もある「rest」の時間と、自分が何をするかコントロールする「レクリエーションre-creation」の要素が両方あって、さらに「自分が休んでいるという実感」がもてることが重要なのではないか、と議論が進みました。ただし、「自分は休んだという実感」が他者の言葉や評価に左右されるかどうかについては意見が分かれました。「休みにずっと寝ていたなんてもったいない」というような言葉による動揺や、ホームレスや生活保護受給者が休むことに対する社会の目の厳しさなども話題にのぼりました。
ここで、「週休4日制」になったらどうなるだろう、という思考実験の提案が出ます。平日よりも休日の方が多くなったら人々の意識はどのように変わるか、という考察ですが、「別の会社とのダブルワークができる」とか「働く以外の過ごし方を知らない人も多いのでは」など、休むことに対して消極的な意見が多く、案外何も変わらないのではないか、という方向へ話は流れました。海外のvacation文化などを鑑みるに、この感覚は日本人に特徴的なものなのかもしれません。「働くことが美徳とされすぎている」という声もあがりました。休日にもついてまわる家事や学校の宿題などのルーティンから離れて「自由になりたい、自分を取り戻したい」という欲求があるという話から、「生きている限り休息はない」のかもしれない、という説まで飛び出しました。
さて、先ほどの「文脈から外れる」ことに関連して、「仕事を休んで入院中の病人にとっての休息はあるか」ということが話題にあがりました。休息が仕事と対比されるだけのものであるとすれば、この人はずっと休息中です。しかし、「入院は回復のためにしているので、ほぼ義務」であると考えれば、さらにそれと対比されるべき休息がありうるということになります。ほとんどの方は後者の考え方をとっていました。また、「休息はいつも人生のサブの部分であり、メインにはならない」という意見も出ました。この例での入院のように、メインになったものは休息にはなりえず、したがって「ずっと休息し続けることはありえない」という考え方です。このように、その人のおかれた状況によって休息の基準が変わることと、サブである休息との比較対象となるメインの活動があることを考えてみると、「休息は相対的」なものなのでしょうか。
ここで「"自由"な時間が休息時間」という観点が再登場します。「自由であるかどうかだけが重要なのでは」という意見も出て、それがさらに、「仕事など諸々の文脈から自由であること(義務からの自由)」と「自律的に時間を使えること(休息への自由)」のふたつに分析されました。「休息できる能力」という言葉も出ます。拘束されていない自由な状態であるという客観性よりも、自分が自由だと思えること、その実感こそが大事なのでは、というふうに話は進みました。この考えを突き詰めると人間の自由意志にまで話が及び、先ほどの「生きている限り休息はない」とは反対に「生きている限り自由、つまり休息なのでは」という説も登場しました。
ただし、「ほんとうの自律・自由はありえないのでは」という疑問や、「自由だと思うだけでよいのであれば、納得し満足した奴隷にすぎないのでは」という意見も出ました。「時間の使い方が決まっているのが仕事」で「自分で時間の使い方を決めるのが休息」という区別が提示され、「時間」と「自由」の話がいっそう掘り下げられました。
最後には、「時間と関係ない自由はありうるが、時間と関係ない休息はありうるか」という問いから、休息が「状態」なのか「行為」なのかといった新しい観点も出るなど、話題は尽きませんでした。
Core Talk Cafe digest

Questions

・休息は「文脈から外れる」こと?
・生きている限り休息はありえない/生きている限り人間は自由=休息
・休息は自由と時間と、実感の問題?
Book Guide

Book

『自由からの逃走』 エーリッヒ・フロム 『自由からの逃走』 (東京創元社)
入不二基義
ちくま学芸文庫

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