48th meeting
「ねむり」
Core Talk Cafe meeting

テーマ選択の背景

ねむることは、わたしたち人間にとって必要不可欠なものです。
しかし、私たちはあまり「ねむり」のことを考えることはありません。
そもそも、私たちは、ねむりに≪ついて≫考えることはできても、ねむり≪ながら≫考えることはできないと思われています。考えるとき、私たちはいつも目を覚ましているのではないでしょうか。
私たちは、ねむりを哲学することはできるのでしょうか?
   

当日の様子

まず、「ねむり」を哲学するということについて、みなさんの関心や疑問をシェアしました。「ねむりについて哲学をすることなどできるの?」といったような反応もありながら、他方で「ねむりと意識の関係」「ねむりと死は違うのか」「夢と現実との違い」などの大きな問いがいくつも提出されました。そのなかでまず、私たちが日常的に使っているねむりの「浅さ」や「深さ」とはなんのことを言っているのだろうかという問いについてみなさんで議論がはじまりました。様々な意見が提出される中で、どうやらそれは「意識」が強く残っているのかそうでないかに関係するのではないかという意見が。しかし、夢の中でも私たちは意識を持っている、夢の中での意識が「弱い」というのは、起きている意識の側からの、〈外側からの〉判断に過ぎない、という反論もありました。夢の最中にはその中での十全な「リアリティ」があり、それは形式は違えど現実のリアリティに「劣る」ものではないのではないだろうか、そのような証拠を私たちは提出できないのではないだろうか、という強い意見です。しかし、やはり夢はやはり夢である、という意見の方から、「論理性」「客観性」「共有可能性(他者性)」「継続性」といった性質はやはり現実の側が優位だ、という意見も。しかし他方で、そのような性質も〈目を覚ましている〉私たちからの評価に過ぎないのではないだろうか、という疑問も提出されました。このような良質な議論の中で、前半は終了です。
後半は、改めて皆さんから問いをシェアしていただくところから再開しました。前半の議論を引き継ぐものもあり、「夢の価値」や「生きることとねむりとの関係」など新たに提出されたものもありました。目を覚ました世界としての「現実」と私たちがありありと感じている「リアリティ」という言葉を明確に区別した上で、これらの問いに挑みます。まず、私たちが何かを本物である、現実であると理解することができるのはどのようにしてなのかという議論が起こりました。その中で、何かが現実であると分かるためには、むしろ虚構を必要とするのではないか、現実は非現実との比較においてしか分からないのではないかというコメントがありました。そのような仕方で夢がむしろ現実を支えているという事態が考えうるのかもしれません。そうすると、ねむることができない、ということに起因する病などは、非現実を持つことができないために現実を現実として生きることができなくなることに起因するのではないか、というような見解も。
〈現実〉を生きることは、思いの外〈非現実〉なしにはありえないのかもしれない、というようなパラドキシカルな事態の検討に入ったところで、時間終了です。「ねむり」に関する問いは、みなさんの日常、現実へと延長されます。
   
Core Talk Cafe digest

Digest of digest

「夢と現実の違いは?」
「ねむりと死は何が違うのか」
「リアリティとはなにか?」
「現実は夢に優っているのか?」

Book Guide

『方法序説』 デカルト『方法序説』(岩波文庫)
デカルト
岩波文庫

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